2012/05/28

「おれにもおっぱいがあればいいのに」子の多くが父に似るのは

創作について書こうとずっと考えていたが、創作中にそんなことを考えても無駄なんである。あ、こう書けばいいんじゃないかな、と合点がいった次の瞬間にはもうそれが陳腐なものに思えてくる。掴めたと思えば逃げている。イキのいい国産うなぎのようだ。簡単には捕まえられないし、最近では貴重なんである。まあ、創作中なのだから、当たり前なのだ。何かの最中に、それ自体を定義づけようとして滞るくらいなら、そもそもそんなことせず、続けてやっていた方がいいんである。

というわけで、今回は、おっぱいについて書く。


とは言っても、エロティックシンボルとしてのおっぱいではなく、栄養源としてのおっぱいについてである。 それも、新米とうさんたちの中でときどき呟かれる、こんなつぶやきについてだ。
 「おれにもおっぱいがあればいいのに」 。
 実はこれ、そう簡単に笑っちゃいけませんぜ、世の奥様方。

一般にこの発言は旦那の嫁に対しての言葉であり、一見、お前にはおっぱいがあるからそうやって泣き止ませたり、寝かしつけたりできるんだ、おれにだって、おっぱいさえあれば、それくらいできるのによ、という自虐めいた非難含みの発言に思えるが、さにあらず。

この発言の真意を得るには、父母と乳飲み子の関係を洞察しなければならない。

そもそも、男にとって、自分の子というのは本当に不思議な存在である。どんなに深い愛情を持っていたとしても、己の腹を痛めることはないから、この子が自分の子であるという実感はないのである。大体、自分の子である保証は、妻の言質と己の記憶しかないんであるから、そりゃ実感にはほど遠い。 出産に立ち合ったとしてもそれは変わらない。感動こそすれ、実感はない。そういうものだ。

つまり、最初からして、父と子の関係は間接的なものなんである。 

一方母は、 産後、おっぱいあげる行為を通して、我が子との関係を更に深めていく。出産は言うにおよばず、授乳も、初期はたいへん痛いのだそうだ。身体的痛みを伴って、母と子の関係は、より直接的で純粋なものになっていく。

父はその様子を、横で見ているしかない。
自分もこうだったのか、と思うとなにやらむず痒く恥ずかしい。
そのうち、母(乳)と子の関係に嫉妬する。
しかし、嫉妬に身を任せておっぱいを奪おうとしたってそれは火を見るより明らかな負け戦である。結局のところ、父と子は、直接的な関係にはなりようがないのだ。

つまり、「おれにもおっぱいがあればよいのに」というのは、おれも、この屈託なく笑う我が子と、なんとかして直接的につながりたい、けど、どうやったってつながれないじゃないかという、深い深い、それはもう大変に深い、父の悲しみの発露なのであった。

しかし、親子とはまったくうまくできているもので、その悲しみが深ければ深いほど、子は父に似る。比例して父の愛も深くなるというものだ。そうなればこっちのもので、もう、子は、驚くくらいに可愛い。いい歳したひげ面のおっさんが顔を赤らめて、か、かわいい...と奥底から思わずもれ出てしまった声で独りごちるくらい、猛烈に可愛いのである。ここまでくれば、間接的だろうが直接的だろうがそんなことはもう関係ない。宇宙一可愛いのは我が子、ここに親ばかの誕生である。

すなわち、子の多くが父に似るのは、父におっぱいがないからなのであった。