94歳の、大往生であった。
亡くなる日の夕方、おじいちゃん危篤の報せを受けて、涼子と環太と僕の三人でおじいちゃんに会いに行った。その日に体調が悪くなっていたおじいちゃんは、老後施設から救急病院に移っていた。
僕たちが病室に入ると、おじいちゃんは独り寝ていた。
やせ細り、管に繋がれたおじいちゃんに、生気はほとんど感じられなかった。
寝息だけが、ひっそりと病室に響いていた。
空気を肌で感じたのか、いつもは五月蝿い環太もおとしくしている。
涼子が静かにおじいちゃんに手をかけた。
反応がないようだった。
「すごく、冷たい」と彼女は言った。
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大正生まれの気骨の人であった。
僕が初めておじいちゃんにあったのは、マイホームツアーのときだから2011年か。ツアーの道中でちょうど山口県を通るので、ご挨拶に伺ったのだった。環太はまだ涼子のお腹の中だった。
どこの馬の骨とも分からぬ収入も安定しない旅芸人の僕を、孫の旦那として歓迎してくれた。印象深かったのは、今いる施設の長老として、日夜大岡裁きに明け暮れているという笑い話であった。
当時92歳であったが、皆から頼られるほどしっかりとしておられる人だった。
その後、環太が生まれ、住む場所を探していた僕たちに、「今は誰も住んでいないから」と家を貸してくれた。近くなった分、おじいちゃんに幾度か会いに行くことができた。
おじいちゃんはいつ行ってもたいてい元気であり、今度スポーツジムに通うだとか、車を買おうと思っちょる、とか、本気かどうかも分からぬことを言って、僕たちを驚かせた。
なかでもびっくりしたのが、今年の二月に環太を連れておじいちゃんに会いに行ったら、環太ちゃんの誕生日じゃろう、とお心を付けてくれたことだ。
90歳を越えて、たくさんいる曾孫の誕生日をいちいち覚えているなど、僕には考えられなかった。おそらく、日頃からそういったことに気をつけて、努力しておられたのだと思う。すごい人だ。
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そんなことを思い起こしていたら、おじいちゃんがゆっくりと目を開けた。
涼子はちょうど、帰り支度をしているところだった。
「涼子、おじいちゃん、目を覚ましたよ」
涼子がおじいちゃんに近寄って、「おじいちゃん、涼子です」と呼びかけた。
おじいちゃんも「涼子ちゃんか?」と応えている。
僕は環太を抱いて、その様子を見守っていた。
身体はまるで動かず、はっきりと話すこともできないが、おじいちゃんの意識ははっきりしているようだ。
喉が渇いた様子だったので、涼子が水差しをおじいちゃんの口元にやると、「自分でやるから」といって涼子の手から取った。
環太をおじいちゃんの目の前に持って行ったら「お〜環太ちゃん」とはっきりと分かっているご様子。
そして、涼子が「おじいちゃん、明日の朝、果物かなにか持ってこようか?何か食べたいものある?」と聴いたら、「果物は病院がうるさいから、ゼリーにしてくれ」だって。
こんなになってもすごい人だなあ、と思っていたら、にやっとしながら、「もうそろそろじゃから、覚悟しときなさいよ」と言い放った。
その日の夜、本当に、ゆっくりと、息を引き取られたのだった。
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素晴らしい幕引きだった。
身体が動かなくなっても、明瞭な意識を持ち、己の死を見据え、それを受け入れたのだろう。そのことを、きちんと、伝えてくれた。
僕は、深く感動した。
血のつながりはないが、誇りに感じるくらいだ。
大正生まれの、気骨の人であった。
94歳の、大往生であった。
すごいひとであった。
あっぱれなおじいちゃんのご冥福を 心より お祈り申し上げます。
返信削除久美子さん
削除ありがとうございます。
お通夜、葬儀も決して暗いものではなく、あっぱれ、という雰囲気がありました。
身の回りのこともほとんどご自身で生前に準備されていたようでした。